昭和40年10月12日 夜の御理解



 (二代御理解
 私共の不徳不信心な為に、毎日親先生に私は今月の一日から、一番最初に一日の夜からちょうどこのような状態で風邪をひかせていただいて、そうすっとその風邪が良くなったかと思ったら今度はまた左の耳が痛い。また耳この耳が良くなったかと思ったらまた風邪引くんですね。してまたその繰り返して今、今日なんかはもう風邪と中耳炎、この中が腫れっぽ、腫れてしまってもう痛いのと頭が痛いのと鼻水が出るのと。
 もう神様からこれでもかこれでもかという具合にもう次から次に求められておるんですけれども。私共本当鈍感な為、不徳の為に、神様のご真意が分からずに、とうとう親先生にご苦労をかけてしまうような事になってしまう。ちょうど私あのもう今日、今日はもういよいよ神様が許してくださらんな、明日から一つ断食でもさせて頂いて、大祭まで一つ修行させて頂こうかと思わせて頂きよったところに。
 そういう事を細々といろんな事を思わせて頂いております時に。ああやって親先生が、勝彦御結界ついてくれという事でしたけれども、そういう事をいろいろ考えてみますと、大祭という意義が、だいたい分かってくるような気がいたしますね。特にこの布教満十五年記念大祭、というのに大変な意義があるという事を私は感じ、感じぜずにはおれない。それは過去にそれぞれに。
 いろんな神様が、修行を求めておられるという事なんですね。それは、どういう事かと申しますと、この満、布教満十五年記念祭、というものを仕える為に、お祭りが仕える為が目的じゃなくて、私達がその十五年記念祭を通して、なお一層信心を、進めさせて頂くというと、いうところに、この記念祭の意義があり、また大祭、月次祭なら月次祭、その祭りの意義はあるんですね。
 私はあらためて、その、夜の御祈念でもそうなんですよ。朝の御祈念、夜の御祈念にいたしましても、その御祈念を仕えるのが目的でなく。その御祈念を通して私共が少しでもおかげ頂いていかねば何にもならんという事を、私はそれを今日、夜の御祈念を仕えさせて頂きながら、あらためてその御祈念、また月次祭、大祭、こういうものの意義というものをあらためて知らされたような感じがいたしまして。
 そしてまたこの、椛目の基礎とも言われまする布教満十五年記念祭、それを祝する意味におきましても、どうしても私共がもう一段と信心の向上。一層改まりのおかげを頂き、一段の、親先生のご信心を引っ張るのでなく、親先生のご信心に沿わせていただける私共にならせて頂きたい。この布教満十五年記念祭を節に。
 一段とおおみかげを蒙っていきたいという事を今日感じささせて頂いた次第でございます。また皆様方の中にも色々な気持ちを持たれてこの記念祭を迎えられる事だと思いますが、どうぞそういう意味で意義ある大祭でありますよう、またその(前項)が大切でございますので、どうぞそこの所を大切に今後信心の稽古をさせて頂きたいと思います。
   どうも今日はまた有難うございました。